2012年11月6日火曜日

大倉尾根

大倉尾根

 私が初めて大倉尾根を歩いたのは、今から46年前でした。なぜ、46年前と覚えているかと言えば、ちょうど1966年の第8回日本レコード大賞で、橋 幸夫の「霧氷」が受賞し、毎日のようにテレビやラジオからその音楽が聞こえていたからです。多分冬の頃だと思いますが、この歌を歌いながら登ったことを鮮明に覚えているからです。その日は、塔ノ岳の山頂まで、たどり着いたかさだかではありませんが、その歌を歌いはじめた場所は、観音茶屋の手前であったことが、如何言う訳か記憶に残っています。
 私と丹沢との付き合いは長く、小学校5年生の時までさかのぼります。たぶん2回目だったと思いますが、葛葉の沢を夏に登ったこともよく覚えています。沢のつめにきて、怖くて動けなくなりました。ちょうどその前を登っていた大人の登山者が、手を差し伸べてくれて、やっとのおもいで、尾根に取り付くことができました。はじめて山で怖い体験をしました。もうあれから52年になります。
 子供の頃から毎日、表丹沢を眺めながら育ちました。小学校の校庭からは、二ノ塔や三ノ塔がはっきりと見え、この山の林相から四季を感じることが出来ました。当時は、今のようにスギやヒノキの植林で覆われていませんので、四季の様子を眺めることが出来ました。それは一年を通し素晴らしい光景でした。春の燃えるような若葉の広がりから、だんだんと濃い緑に変化していき、秋は、まさに錦秋の光景になります。初冬は、薄茶色に変わり、手や耳に霜焼けができるようになりますと、雪化粧となります。一年を通していながらにして、楽しむことが出来ました。毎日のように日暮れまで外で遊び、三ノ塔が夕日で赤く染まる頃に、家路に着いたものでした。
 学生の頃になりますと、登山用品にも興味を覚え、ノルディカやツェルマットの舶来登山靴を買いました。ノルディカは、私の足に合わず、数回利用しただけで、誰かにあげてしまいました。ツェルマットの方は、よく足に馴染み、満足しました。当時は、まだバックスキンや茶色の革靴は珍しかったと思います。値段もかなりしました。一番の買い物は、ピッケルだったと思います。水道橋近くの専門店でローマン・ウィリッシュを奮発しました。毎日のように亜麻仁油で磨き、眺めていました。実際に利用するよりも、眺めていた方が多かったようです。壁にも飾ったりして楽しみました。そのうちに飽きて、錆がでてくるようになった次点で、友人に二束三文で譲ってしまいました。
 20代に入りますと、登山よりもサイクリングに興味がだんだんと移っていき、その後、20年ほどのブランクがありました。
 15年前から再び、山に帰ってきました。坪田和人さんの「ブナの山旅」が刺激となり、丹沢以外のブナ林歩きが主体となりました。数年前の秋に栗駒山の湯浜道から大地森を歩いた時の感動は、いまでも鮮明に覚えています。
 小泉改革により56歳で早期退職した後は、西丹沢を中心に歩くことが、多くなりました。特に三国山稜が好きで、年間50回以上歩きました。歩いているうちに、ヅナ坂の古道も発見し、毎週歩いても飽きないほどでした。丹沢と三国山稜の中で最大のブナを発見したことが、一番の収穫でした。胸高幹周りが4,5メートル、樹齢は350年ぐらいと推定されます。この木の前に立ちますと荘厳な気分になり、思わず手を合わせたくなります。おそらくこれが本当の山ノ神様なのでしょう。
 以前は、あまり大倉尾根は歩きませんでした。理由は、スギやヒノキの植林が多いことと、登山者が平日でも多いことでした。ですから私は主に静かな自然林の多い西丹沢を一人歩くのが好きでした。ところが数年前からは、山小屋の開いている土曜日や日曜日に大倉尾根を歩くことが好きになり、殆ど毎週歩くことになりました。いままでは山での挨拶も煩わしかったのですが、最近はそれも楽しくなりました。歩いているうちに常連さんがいることも知り、名前と顔がだんだんと分かるようになり、言葉を交わすまでになりました。これからも週に1回は、大倉高原や大倉尾根を歩こうと思っています。(オ)

大倉登山口 2009年11月30日撮影
 
登山口付近 2010年1月24日撮影
 
4番付近 2008年12月15日撮影

同上付近 2009年11月30日撮影

一本松上 2009年8月26日撮影

雑事場 2007年11月4日撮影

一本松手前 2008年8月11日撮影

堀山付近 2008年12月15日撮影

観音茶屋付近 2007年6月20日撮影

駒止手前 2009年11月30日撮影

富士見平 2010年1月24日撮影

堀山の家 2010年1月24日撮影

ミヤマウズラ 大倉尾根で 2009年8月26日撮影